心はいつも空虚だった
ピカソ〈美術界最大の巨匠にして革命児〉
有名なテニス選手が、コートの外では気難しく、つきあいにくいといわれたことも、絵を楽しんで描いていたピカソが、筆を置いたとたんに不機嫌になったといわれるのも、そのためでしょう。
"ゴッホ"になったことを知らぬまま、極貧の生涯を終えたゴッホに比して、ピカソは、"ピカソ"としての人生を満喫したといわれる。財産や名誉、意中の女性も、次々と手に入れた。世人の望む幸福すべてを掌中にした巨匠の心底はしかし、常にむなしかった。
1881年、スペインに、美術学校の教師を父として誕生した。最初に覚えた言葉は、"ピス(鉛筆)"。
「私は子供のときに自転車に乗ったことのない唯一の男である。描くことにしか興味がなかった」(*1)
10代になると、息子の画才に自分の技量を恥じた父が、絵筆を執らなくなった。首都マドリードの王立美術学校の入試では、他の受験生が一カ月かかるデッサン群を一日で仕上げ、試験官を驚かせた。
合格はしたが、学校へ行かずに美術館へ通ったため、仕送りを止められ、中退。
20歳でパリへ出るも、絵に買い手がつかず、困窮した。ベッドが一つしかない友人の部屋に転がり込み、彼が働いている昼間に眠って、夜中に絵をかいたという。
後に「青の時代」と称されるこのころ、青黒い絵ばかりかいたのは、青絵の具が安かったからともいわれる。
それでも少しずつ売れ始め、30歳を迎えるころには、評価が安定してきた。
1911年、ピカソの絵がアメリカで公開されるや、ニューヨークやボストンなどに衝撃が走る。収集家はこぞって絵を買い求め、世界が注目する芸術家になった。
以来、さっと一枚かいただけで、城のような別荘さえ購入できるセレブとなる。しかも、市場価値が下がらぬよう、作品を少しずつ売却したため、裕福な暮らしは一生、変わらなかった。
名画の陰に女7人
才能か、そのもたらす富の恩恵か、ピカソの周囲にはいつも、若い女性がいた。「バラ色の時代」「キュビスム(*2)の時代」「新古典主義の時代」……と目まぐるしく画風が変化したのは、恋人の影響とも分析される。
無名時代は、フェルナンド・オリヴィエと暮らし、その間、キュビスムのさきがけ『アヴィニョンの娘たち』を制作する。仕事が成功した後には、エヴァを愛し、34歳で彼女を病で亡くしたあと、上流階級出身のオルガと結婚する。当初は、妻の望む紳士としてふるまったが、儀礼的な生活に嫌けが差すのに時間はかからなかった。
そのころ、17歳のマリー=テレーズと密会し、彼女は懐妊。それを知ったオルガは、息子と家を出た。ピカソは離婚を願ったが、オルガは生涯、妻の座から降りなかった。別れた場合、財産を二分せねばならなかったことも、彼が離婚を断念した理由らしい。
1937年、ヒトラーによる母国への無差別爆撃に怒り、代表作『ゲルニカ』が生まれた。その制作過程を記録した写真家のドラ・マールとも、交際する。その後、つきあったフランソワーズ・ジローには、ピカソが65歳と67歳の時、息子と娘を生ませ、彼女が去ったあとも、ジャクリーヌ・ロックと、91歳で死ぬまで暮らしている。
豪勢な生活と好みの女性。
心の赴くままに人生を楽しんだかに見えるピカソだが、筆を置いた途端に不機嫌になったという。食事時に椅子にじっと座っているのさえ、苦痛なようだった。
50代のころに同じ屋根の下に住んでいた友人は、こう証言する。
「(ピカソは)独りになると直ぐ、食堂でもベッドででも、寝る前や朝食を待つ間に小さなノートを取り出して書いていた。誰か邪魔がはいると、彼はそれを隠して眉をしかめて云った。『何だい?』」 (*3)
好きなことに熱中している時は楽しくても、それが終われば、煩わしい現実に逆戻りする。趣味や生きがいの喜びは一時的なものだ。ピカソとて、例外ではなかった。
有名になると、街も気楽に歩けない。自宅にいても、連日のように人が訪れ、仕事やお金の話を持ちかけてくる。つきあった女性たちは、過去を暴露する本を出版して、プライバシーを侵害した。
ピカソにとっては、使用人に所用を命じたり、しかったりするのさえ、おっくうだった。自室の掃除を頼まず、自分でもしないので、ほこりもそのまま、作品は散乱して放置されるのが常だった。
ピカソは芸術に没頭し、そんな日常から逃避しようとした。そして、ふと、我に返るたび、嘆息したのである。
「トド・エ・ナダ(すべてはむなしい)」
完成なき道の苦しみ
晩年には、唯一の安らぎであった絵の制作にすら、苦痛を覚えるようになる。
「何と嫌な商売だ」
とこぼしては、表現したい題材もないのに、描き続けねばならぬことを自嘲した。また、かいた絵が、
「傑作なのか屑なのかわからない」(*4)
と、たびたび友人に漏らすようにもなったという。
さらに、
「何よりも辛いのは、永遠に完成することがないということだ。『さあ、よく働いた。明日は安息日だ』と言える日は来ないのだ。(中略)絵を脇に押しやり、もう手を触れまいと言うことはできる。だが、『終』と書きこむことは絶対にできない」
と、終わりなき道の苦しみを訴えた。
しまいには、
「誰にも何の役にも立たないではないか。絵、展覧会──それがいったい何になる?」
「何もかも変わった。(中略)すべて終わった。絵はわれわれが信じていたようなものではなかった。それどころか正反対だった」(*5)
と、人生の大半を費やしてきた芸術を否定するに至る。
それでも、死の前日まで絵をかくほかなかった画家は、1973年、膨大な作品を手元に残したまま、生涯を閉じた。
3つの城館、2つの別荘、その他の土地や預貯金に作品群を加えると、遺産は7400億円に上った。
生前、ピカソは、
「私が死んだら、まるで船が遭難するようなものだな。大きな船が沈むと、その近くにいる人はみな、渦に巻き込まれてしまうんだ」(*6)
と語っている。
その言葉どおり、相続をめぐる遺族の争いに決着がつくまでに4年を要し、その間、長男・ポールが死に、孫のパブリートは自殺した。恋人たちも、マリー=テレーズとジャクリーヌは後を追うように自ら命を絶ち、ドラ・マールは、ピカソの作品に囲まれたまま、貧困のうちに人生を終えたのだった。
*1『ピカソ全集』神吉敬三編
*2いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収める、現代美術の大きな動向
*3『親友ピカソ』ジェーム・サバルテ著、益田義信訳
*4、5『ピカソ 偽りの伝説(下)』アリアーナ・S・ハフィントン著、高橋早苗訳
*6『マイ グランパパ、ピカソ』マリーナ・ピカソ著、五十嵐卓・藤原えりみ訳
【大富豪ゆえの悲劇】
ピカソは泥棒に押し入られる夢を何度も見た。
「泥棒を捕まえろ!」
という自分の悲鳴で目覚めたり、そのあと気になる品を捜しても見当たらず、友人が盗んだと思い込んだ。しかし、数カ月後に自宅で見つかるようなことがよくあったという。
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【パブロ・ピカソ】
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