苦痛と退屈のあいだを、振り子のように揺れ動く
アルツール・ショーペンハウエル
「窓際の聖者」といわれるアルツール・ショーペンハウエルは、生涯、定職を持たなかった。思索と執筆の72年は、頼る家族もない、不遇な人生でもあった。
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フランス革命前年の1788年、ポーランドのグダニスクで豪商の長男に生まれた。
生来の猫背を、かんしゃく持ちの父にしょっちゅうしかられ、いじけていると、またしかられる。父より十九歳若く、社交好きな母からは、陰気な性格を煙たがられていた。
それでも利発に育ったアルツール少年は、12、3歳ころ、学者になりたいと口にする。しかし、商人の道を望む父から、「高校進学をあきらめれば、ヨーロッパ漫遊の旅に連れていく」と提案され、断れなかった。
2年の大旅行で少年の目に映ったのは、ナポレオン戦争で廃墟と化した国土や貧農、失業者の哀れな姿だった。
「かつてブッダが若年で生、老、病、死を見つめたように、この人生の悲惨さにとらえられてしまった」
と、後に書いている。
帰郷して、約束どおり、商会に奉公に出たが、学問への情熱は抑え難く、隠れて本を読みながら、懊悩していた。
そんなある日、長旅の疲れで病床にあった父が、川に転落死する。自殺らしかった。母は、悲嘆に沈むアルツールを置き去りに、芸術の都・ワイマールに移住してしまう。
ただ、この時、父の商会を畳んでくれたのは幸いだった。莫大な遺産もあり、彼に念願の学問の道が開けたのである。
しかし母子は、2度と同居することはなかった。
■30余年の孤独
高校では、半年でラテン語をマスターし、古典文学や哲学を次々に読破した。ゲッティンゲン大学では最初、医学を専攻したが、
「人生とは元来、不安なものである。この不安の闡明に一生を懸けても惜しくない」
と、哲学の道に進んだ。
25歳、イェナ大学で哲学博士の学位を取得、31歳で、主著『意志と表象としての世界』を発刊する。
「(人生は)苦痛と退屈のあいだを、振り子のように揺れ動く」
目を背けたい人生の実相を、毒舌にユーモアを交えて暴き出し、後にニーチェに多大な影響を与えたといわれる。
「私は哲学の主要な問題を解決してしまった」
「この書は、後に何百もの他の書物に引用され、利用されることになる」
と、自信家の彼は書いている。
しかし、他の哲学者をこっぴどく批判した内容もあったため、学会から黙殺された。
出版社は数年後、在庫の大半を処分し、彼の哲学が日の目を見るまで、さらに30余年を要するのである。
「天才は自分の実生活にかけては大抵、不器用極まりない」
とも書いている。
32歳でベルリン大学哲学科の私講師に採用されると、自分の講義をあえて人気絶頂のヘーゲルの講義にぶつけ、「蟷螂の斧」と笑われた。空っぽの教室にプライドを傷つけられた彼は、その後、教職はおろか、一切、職業に就くことはなかった。
その翌年には、近所のおしゃべりな老女の口害≠ノたまりかね、父親譲りのかんしゃくでケガをさせ、彼女の終身扶養義務の判決が下った。
劇場通いで知り合った踊り子と、結婚まで考えたが、破局。神経の病でまる1年を部屋にこもって過ごすなど、逆境が続き、45歳ころからは、社会との接触をほとんど断ってしまった。
しかし、執筆の力は衰えない。50代後半から6年間、書きためた随想集『パレルガ』が完成すると、風向きが変わり始めた。熱狂的信奉者が、出版社を説得して発刊にこぎつけると、まずイギリスの書評誌が大々的に取り上げ、次いで評判はドイツに飛び火し、彼のそれまでの著作が一気に注目を浴びた。戦乱に明け暮れる不安な世相を背景に、多くの人が、厭世哲学≠ノ心酔したのである。ショーペンハウエル63歳であった。
国内外から称賛の手紙が届く幸福な晩年であったが、彼は書き残している。
私は一介の案内者にすぎない。人生の答えは、各自が古典や東洋の宗教をひもといて見つけてほしい、
と。
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ニーチェ
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