花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき
林 芙美子
昭和26(1951)年、心臓を患っていた林芙美子は、主治医の忠告を聴き入れず、『主婦の友』の「私の食べあるき」という企画で外出した。夜10時過ぎに帰宅し、家族と団欒した後、床に就く。
11時を回っていた。突然、芙美子は苦悶し始め、午前1時、帰らぬ人となる。47歳だった。
花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき
自由奔放に生きたといわれる作家の内実は、貧困や孤独との闘いであった。
林芙美子は誕生から、放浪者だった。
行商人の父・宮田麻太郎と、母・林キクの元、山口県下関市の間借りの部屋で生まれ、私生児として届けられる。22歳の麻太郎に、14歳年上のキクと入籍する気はないまま、3人の生活は続いた。
だが芙美子6歳、母とともに家を追い出される。麻太郎が、芸者を同居させたからだ。雪の降る夜、少女の心に大きな傷が残された。
一度だって、ほんとうの父に逢いたいと思ったことはない(一人の生涯)
同じころに麻太郎から解雇された番頭・沢井喜三郎が、芙美子の養父となる。母と沢井は、町から町へ行商をして歩いた。1つ1銭のアンパンを芙美子も売り歩き、日が暮れれば、行商仲間の子供たちとパンをかじりながら帰った。
やがて3人は、広島県の尾道に落ち着く。
広島県尾道市
愛に飢える文学少女
15歳の時、芙美子は尾道市立高等女学校へ入学した。才能を発揮したのは作詩である。空想力が自由に跳ね、生き生きした文章が駆け出す。
商業高校に通う岡野軍一と出会ったのも、そのころだ。2人は語り合って時を過ごす。淡いときめきだった。
女学校を卒業した芙美子は、東京へ向かう。仕事を見つけ、両親の生活を少しでも支えたい。また、東京の大学へ進んだ岡野に会うためでもあった。
しかし、再会した2人の幸せは続かなかった。貧しい行商人の娘との結婚は、周囲から反対されたのか、岡野は故郷へ帰ってしまう。
わびしく苦しい生活が始まった。目まぐるしく芙美子は、職を遍歴する。文士や学者宅での掃除・洗濯、株屋の事務員、玩具工場やカフェでも働き、産院の手伝い、毛糸売りもやった。が、1日じゅう働いても、その日をどうにか過ごす収入しかない。キャベツを刻んだだけのおかずがごちそうだった。泊まる家がなく、駅の公衆便所に寝たり、空き家に潜り込んだ夜もあった。
やがて知り合った俳優・田辺若男と、同棲するようになる。貧しいながらも幸せを感じていたある日、芙美子は田辺のカバンから、2千円の預金通帳を発見した。芙美子を働かせて大金を隠している田辺に、激しい憤りを覚えた。2人の仲は、数ヵ月で終わりを告げる。
芙美子は寂寥感に耐えかね、知り合って間もない詩人・野村吉哉と暮らし始める。しかし、野村は芙美子を土間へ投げ飛ばしたり、炭俵に詰めたりもした。やがて野村に愛人ができると、芙美子は身を引いた。
『放浪記』で鮮烈に
しばらく後、友人の紹介で手塚緑敏と会う。ようやく芙美子は、落ち着いた結婚生活を手に入れた。
そして、書きためていた日記に、芙美子は手を入れてみる。昭和3年、世は女流文学熱が高まっていた。
雑誌『女人芸術』に、芙美子の手記『放浪記』が載ることに。評判はよく、改造社が発刊した「新鋭文学叢書」の1冊に収録されたのである。
圧倒的な売れ行きだった。評論家の批評よりも早く、一般読者の人気を呼び、『続放浪記』も出版される。1、2年で60万部が売り尽くされた。
印税を手にした芙美子は、満州から中国大陸へ、2ヵ月にわたる旅に出た。昭和6年には、片道切符を手にパリへ。滞欧中、短編小説や随筆、紀行文などを次々に書く。旅に生きた芙美子らしかった。
名声はますます高まった。反面、栄枯盛衰の文壇でいつ、読者から忘れ去られるか、芙美子は不安にさいなまれたという。築いた地位を脅かしかねない新人女性作家には、特に神経質になり、露骨な妨害をしたという証言もある。
原稿依頼はことごとく、無理を承知で引き受けた。『晩菊』で昭和24(1949)年、日本女流文学者賞を受賞。新聞小説や雑誌の連載を敢行し、ほかにも長編、短編を発表している。
夜10時ごろから執筆を始め、深夜の4時に就寝する。朝は7時に起床して、決まったように机へ向かう。濃いコーヒーとタバコを愛する生活は、芙美子の健康に暗い影を落とした。肺炎で一度、入院したが、仕事は一向に減らない。動悸が激しくなり、持病の心臓弁膜症で少しの運動にも耐えられなくなっていく。
私はあと幾年も生きてはいられないような気がしている。心臓が悪いので、酒も煙草もとめられているのだけれども、煙草は日に4、50本も吸う(椰子の実)
いくつも連載中のまま、林芙美子は短い生涯を閉じた。死因は心臓麻痺だった。
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