人間を根本的に動かしているのは、「優越を求める心」だ
アルフレッド・アドラー
音楽家マーラーやブルックナー、画家のクリムトなど、芸術文化が花開いた19世紀末のオーストリア。アドラーは裕福なユダヤ人穀物商の次男として、首都ウィーンの郊外に生まれた。
3歳の時、同じ部屋で寝ていた弟が急死する。伝染病だった。1年後、今度は自分が肺炎にかかり、死のふちをさまよったアドラーは、わずか5歳で、医者になる決意をしていたという。
フロイト(Wikipedia)
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1895年、ウィーン大学医学部を卒業し、最初は眼科医、後に内科医として開業するが、1冊の本が人生を大きく動かした。ジグムント・フロイトの『夢判断』だ。
精神医学に興味を深めたアドラーは、批判の的だった夢の理論を擁護し、1902年、フロイトの招待で彼の研究会に加わった。水曜夜に行われた会合は、「水曜心理学会」と名づけられ、後に「国際精神分析学協会」へ発展する。
だが、学説でも、人間性でも、2人は激しくぶつかるようになる。
1m50cmの運動オンチ
フロイトは、神経症患者が語る、幼児期の性的外傷体験の夢をヒントに、性的な衝動が人間を根本的に動かしているとして、有名な「リビドー理論」を唱えていた。抑圧された性欲が、神経症の原因だと考えたのである。
アドラーは、これに反発する。彼の診察した神経症の患者の多くは、他人を支配しようとする傾向が強かった。それは抑圧された、「権力への欲求」を示している。
アドラーは、人間を根本的に動かしているのは、「優越を求める心」だと主張した。
優越を求める心は、同時に劣等感を生み出す。2つは裏と表の関係だ。ゆえに、「すべての人は劣等感を持っており、それは努力と成長への刺激となる」と彼は説明する。
しかし、劣等感に押しつぶされた時、人は病的になり、耐えがたい劣等感を回避するため、偽りの優越性を誇示し始める。「この病的な劣等感こそ、神経症の原因だ」と彼は考えたのである。
エリートのフロイトと違い、アドラーは常に劣等感を抱いて生きていた。生来病弱で、歩行困難であった彼は、幼少期、2度も馬車にひかれたという。医者を目指したのも、そんな自己の劣等性を克服するためだった。運動は大の苦手。また、彼の身長は1メートル50センチだったという。
患者と自分、人間一般を観察して、彼は結論づける。
優越性の追求は、決してやむことはありません。実際、それは個人の心、精神を構成するものです。(中略)人生は目標を達成しようとすること、あるいはそれに具体的な形を与えようとすることです。そして、具体的な形を達成することへと向けて人を動かすのは、優越性の追求です(個人心理学講義)
オーストリアの首都 ウィーン(Wikipedia)
世界初の児童相談所
1911年、アドラーとフロイトの対立は頂点に達した。国際精神分析学会を脱退し、アドラーは、数名の仲間を引き連れ、「自由精神分析学会」を結成。翌年、「個人心理学会」と改名する。フロイトは、アドラーを野心的で強情だとののしった。
私たちのいわゆる個人心理学は、実際のところ、対人関係の心理学である(個人心理学講義)
アドラーは、心を機械のように分割して説明する精神分析の発想を排し、対人関係の中で個人をとらえる、心理学の新潮流を生み出した。
そして、「治療よりも予防が大切」だと、教育の役割を重視し、第1次大戦後、荒廃したウィーンに世界初の児童相談所を設立、やがて欧州全土に普及させる。
だが、時代は彼に味方しなかった。ナチスの台頭とともにアメリカへ亡命した3年後、アドラーはこの世を去る。
わずかな著作、断片的な論文しか残されなかったが、競争社会の激化とともに、アドラーの理論は、心理療法やカウンセリングに幅広く応用され、その先駆性が高く評価されるに至る。
ついに、アドラーはフロイトと並ぶ、心理学の"巨人"となった。それは、彼自身が求めた優越性の形だったのかもしれない。
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日本アドラー心理学会
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