「手足がきかなくなった今になって、大作を描きたいと思うようになった。ヴェロネーゼや、彼の『カナの婚礼』のことばかり夢みている! なんて惨めなんだ!」
ルノワール
平成17年6月、国内オークション史上2番めとなる3億1,000万円で落札され、巨匠の貫禄をみせたルノワール。だが、まぶしい絵の輝きとは裏腹に、彼の生涯は過酷だった。
◇ ◇ ◇
19世紀半ば、パリ郊外の陶磁器工房に、「天才絵付師」と呼ばれた少年がいた。ルノワールである。
貧しい仕立て屋の6男に生まれたルノワールは、13歳で工房に入ると、わずか数年で絵付けの技術をマスターし、カップや花瓶に、あでやかな白い肌の女性を好んで描いていた。
しかし、ほどなく絵付けの機械化によって職を失い、21歳で、画家を目指してパリの国立美術学校に入る。
印象派、誕生
フランスでは当時、「古典主義」が幅を利かせていた。絵のモチーフは神話や聖書に限られ、細密画のような自然描写と、理想的な肉体を描くことが、画家として認められる道だった。
そんな古いしきたりをうち破ったのは、新進気鋭の画家マネである。マネの描く風景は、見たことのない自由と喜びにあふれ、古典主義に飽き足りないルノワールを、たちまちとりこにした。
ピアノに寄る少女たち(写真:Wikipedia)
|
やがて、モネ、シスレーらの仲間とともに、1874年、「印象派」が誕生する。日常の風景を、主観的に見えるまま描き出す印象派。中でも、ルノワールの特徴は、情緒的な人物画にあった。
「私が好きなのは皮膚だ。若い女性の、ピンク色で血のめぐりのいい皮膚なのだ。しかし何といっても好きなのは、健やかさなのだ」
ルノワールは、人々の喜びや女性の輝きを、柔らかなタッチで描き続けた。だが、そんな彼の肉体に異変が起きる。
激痛との闘い
50歳ごろのことである。右腕を骨折したルノワールは、その後遺症でリューマチを患う。リューマチは、全身の関節が激しく痛む病気である。やがて関節は変形し、61歳の時には、杖なしでは歩けなくなっていた。
家族の献身もむなしく、病状は次第に悪化し、ついには寝る時の布団の重みにさえ、悲鳴を上げるようになった。彼は夜を恐れた。
追い打ちをかけるように、第1次大戦が勃発。息子が重傷を負うと、看病に疲れ果てた妻が、56歳の若さで世を去った。彼は一言、つぶやいたという。
「もうたくさんだ」
残酷な晩年だった。筋肉はそげ落ち、ベッドに横になるのもつらかった。全身の関節は折れ曲がり、片方の足は包帯で巻かれていた。その体で車椅子に座り、筆を持つ手を包帯でグルグル巻きにして、彼は執念でキャンバスに向かった。
才能を発揮できない無念さを、次のようにも語っている。
「手足がきかなくなった今になって、大作を描きたいと思うようになった。ヴェロネーゼや、彼の『カナの婚礼』のことばかり夢みている! なんて惨めなんだ!」
最後の述懐
1919年の夏、何かを予感したのか、彼は旅に出た。向かった先はルーブル美術館。その日、美術館は閉館していたが、職員たちは、「絵画の法王」と呼ばれた男に敬意を表し、扉を開けたという。3ヵ月後、ルノワールは78年の生涯を閉じる。
「人生には不愉快なことがたくさんある。だからこれ以上、不愉快なものを作る必要がないんだ」 と言って、死ぬまで筆を持ち続けたルノワール。
最後の作品を仕上げた時、こう漏らしたと伝えられている。
「絵の描き方ってものが、ようやく少し分かってきたよ」
※「カナの婚礼」とは?
16世紀にベネチアで活躍した画家、パオロ・ヴェロネーゼが描いたもので、パリのルーブル美術館にある。その大きさは6m66cm×9m90cmで、現在フランスにある最も大きな絵といわれる。また、ルーブルの至宝『モナリザ』と同じ部屋に展示されていることでも有名である。
【このページのトップ】
|