「もうあと5年長生きできたら、本当の画工になることができたものを」
葛飾北斎
完成なき芸術の道
齢九十、絵の求道者の悔恨
富嶽三十六景・神奈川沖浪裏(Wikipediaより)
秀麗な富士を描かせたら、この人の右に出る者はないという。江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎である。
かつて、米国の写真雑誌『ライフ』が選んだ、過去1000年間に最も重要な業績を残した100人の中に、日本からただ1人選ばれている。
衣食住に一切構わず、絵の道の完成一つを追究した生涯に、真の満足はあったのだろうか。
1760年、江戸の本所割下水(現在の墨田区)に生を受ける。父は将軍家御用達の鏡師、母親は、赤穂浪士の討ち入りに応戦して散った吉良家の重臣の孫に当たるという。
10代は、彫刻の師について修行していたとも、貸本屋の徒弟となり、仕事の合間に本をめくって絵心をはぐくんだともいわれる。
19歳の時、高名な絵師に入門し、浮世絵の基礎はもちろん、他流派や漢画、また、当時広まりつつあった西洋画など幅広く絵の技法を学んだ。ただ、社交性がなく、兄弟子たちとの仲は決してよくなかった。
早くに結婚し、2児をもうけたが、何分、まだ無名の絵師である。二十八歳の時の大飢饉の際は、不本意ながらもトウガラシ売りのアルバイトで食いつなぐしかなかった。
30歳ごろ独立し、優美で可憐な美人画で、そこそこの人気を博したが、その程度の成功では満足できず、新境地を小説の挿絵に求めた。
時あたかも、町民文化が勃興し、著名な小説家が多く輩出した。それらの小説に描く挿絵が次々と依頼される。物語を彷彿とさせる、北斎のリアルな絵が大衆に受けて、小説は一大ブームとなった。今風にいえば、売れっ子イラストレーターの地位を不動のものにしたのである。
それまで、ずっと借家を転々としていたが、ようやく経済的に余裕が出てきたのか、49歳にして初めて新居を構える。
盛大な新築祝いもしながら、しかし、翌年には、その新居を売り払い、再び借家を転々とする生活を始めている。理由は不明だが、現状維持に流れようとする自分への戒めだったのかもしれない。
ただこれには、妻も堪忍袋の緒が切れたか、一悶着あったらしい。間もなく北斎は、やもめ暮らしに舞い戻るのだが、身軽になったのを幸いとばかり、関西方面にふらりと旅に出る。絵さえ描ければ、住みかにはこだわらない。筆一本で、出掛けた旅先で鋭意、創作を続け、新たな画境を求めた。
懇意の出版元のある名古屋では、画集の宣伝も兼ねて、大掛かりなイベントを行っている。西本願寺別院の境内に、特注の120畳の紙を広げ、米俵5個分のわらで作った大筆と中小筆を動かす力業。
昼過ぎに始まり、夕方完成したものを滑車で高く引き上げると、見事な達磨の半身図である。
飄々としながらも、恐るべき緻密な計算で大衆をアッと言わせるのが持ち味だった。
不朽の名作「富嶽三十六景」
富嶽三十六景色・凱風快晴(赤富士)(Wikipediaより)
北斎にとって挿絵での成功は始まりにすぎなかった。
このあとさらに、人間のあらゆるポーズや表情の研究を深めていき、これまで研鑚した風景画の技法と合わせ、70歳過ぎに完成したのが、一世一代の傑作「富嶽三十六景」である。江戸の人々にこよなく愛された富士山と、生き生きと働く庶民の姿を斬新な構図で配置した作品群は、当時、大喝采で迎えられ、今日では、世界の美術史の記念碑的作品とされている。
飽くことなき絵の道の追究は、高齢になってこそ激しくなった。
人物をより正確に描写するためには、人体の骨格に通じなければならぬと、晩年になって接骨医に入門する。その徹底ぶりは、彼の知人をも驚かせた。
『富嶽百景』(※1)の跋文(あとがき)は、その絵と同じくらいに有名である。
「私は、6歳から物の形状を写す癖があり、50歳ごろから数々の作品を発表してきたとはいうものの、70歳以前に描いたものは、実に取るに足らぬものばかりである。73歳にして、ようやく禽獣虫魚の骨格や、草木の生え具合をいささか悟ることができたのだ。だから、80歳でますます腕に磨きをかけ、90歳では奥義を究め、100歳になれば、まさに神妙の域に達するものと考えている。百数十歳ともなれば、一点一画が生き物のごとくなるであろう。願わくば、長寿をつかさどる君子よ、わが言葉が偽りならざることを見届けたまえ」
神妙の域に達するまでは死ねない。絵の道完成への執着は、生への執着でもあった。描いた絵のほとんどすべての落款に、年齢を記入し始めたのもこのころである。
最晩年にも精力的な活動は全く衰えない。89歳では、信州・小布施の弟子宅に長期滞在し、祭り屋台の大天井画を描いている。
浅草の貸長屋に戻った90歳の春ごろ、病床に伏すようになり、4月半ばに世を去る。
「あと10年……、いや、もうあと5年長生きできたら、本当の画工になることができたものを」
が、最後の言葉だった。
超有名作家がなぜ生涯貧乏だったのか?
傑作を幾つも出版し、画料も人一倍高く、酒も茶も飲まない北斎だったが、一生貧乏で、飢饉のたびに、大慌てせねばならなかった。
なぜか――。
手本にする絵の購入のためである。研究のために買い求めた古今東西の絵が、80歳ごろには、車にいっぱいあったという。残念ながら、それらは全部火事で焼失してしまった。
掃除嫌いの引っ越し魔
北斎の掃除嫌いは有名だった。晩年に、彼の家を訪れた弟子によると、狭い家の中には、空になった重箱や、食べ物を包んでいた竹の皮が散らかり、まるで物置と掃きだめを一緒にしたようで、仕事中にかぶっていたこたつ布団は、シラミだらけだった。
これ以上住めないほど家が汚れると、引っ越しをするのが習慣で、本人の弁によれば、その回数は生涯に93回に上ったという。
当時の文化人名簿ともいうべき『広益諸家人名録』(天保7年版)には、〈葛飾北斎……居所不定〉(※2)と書かれてある。
※1「富嶽三十六景」(版画)の数年後に刊行したスケッチ集
※2『浮世絵大系13 富嶽三十六景』(後藤茂樹編)による
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葛飾北斎の作品紹介
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