ジェームス・デューイ・
ワトソン
James Dewey Watson, 1928-

アメリカの分子生物学者。ケンブリッジ滞在中クリックと協力して DNA の二重らせん分子構造モデルを確立。1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞。

鳴かず飛ばずの大学教授で終わるより、有名になった自分を想像したほうが、楽しいに決まっている

ジェームズ・ワトソン

権謀多き政財界に比べ、科学の世界には、清潔なイメージがある。しかし、遺伝子構造の解明でノーベル賞を受けたワトソンは、実際は違うと証言している。

1928年、ジェームス・デューイ・ワトソンは、アメリカに生まれた。成績優秀で、15歳でシカゴ大学に入った彼は、生物学の可能性を示唆した『生命とは何か?』を読み、胸躍らせた。どんな物質が遺伝情報を持つのか分からなかった時代に、

「遺伝子の構造を明らかにすれば、偉業となる。オレがそれを、解明するのだ」

と、大学1年で決意する。

未来の栄誉を夢みて

22歳で博士号を取得。遺伝のカギはDNAにあると予想した彼は、イギリスの研究所に移った。そこで、同じくDNAに着目していたクリックと出会い、意気投合。研究熱は一層高まり、特にワトソンは、解明できた暁に、科学誌にどう発表するかまで思い描いた。

イギリスでのDNA研究は当時、生物物理学者のウィルキンズの独壇場だった。小ぢんまりとした英国学会では、大抵が知己同士。その知り合いの永年の研究に手を着ければ、非難は免れない。しかし、2人はひそかに研究を開始する。

ワトソンは書いている。

ある考えを危険をおかして実行してみようともしない、鳴かず飛ばずの大学教授で終わるより、有名になった自分を想像したほうが、楽しいに決まっている

DNAの構造解明は、正確なX線写真があれば、早まるはずである。しかし、写真はウィルキンズの研究室のものだった。しかも、撮影技術に優れた彼の共同研究者・F嬢は、自分を助手扱いするウィルキンズに腹を立て、彼にさえ、自分の撮った写真を見せなくなっていた。彼女も、ウィルキンズを出し抜こうとしているらしい。

知人でもないワトソンらに見せるはずもなく、2人は鮮明な写真なしで、DNAの分子模型を考え始める。数ヵ月後、模型を作り上げ、意気揚々と周囲に見せたが、F嬢が自分のデータと合わないと指摘。模型は失敗だった。

無断で研究を始めた揚げ句、的外れな結果を出したと知った研究所の所長は、2人にあきらめるよう、通告する。しかしワトソンらは、科学史に輝く発見を、みすみす他人に譲る気にはなれなかった。

2人は、ほかの研究に没頭しているふりをして、考え続ける。ウィルキンズに一度は渡したDNAの研究道具も、「ウィルスの研究に必要だから」と、うそをついて返してもらう。会食する際には、わざとDNAの話題を外したりもした。

翌秋、米国の学者がDNAのなぞを解いた、との情報が入る。地団駄踏んだワトソンだが、学友だったこの学者の息子から、いち早く論文を奪い見た時、その間違いに気づいた。


DNA分子モデル(Wikipedia)

「チャンスはまだある!」

ワトソンはある日、ウィルキンズと仲の悪いF嬢と衝突する。ウィルキンズは、ワトソンを自分の理解者と感じ、彼女のX線写真を"盗み撮りしていた"秘密を打ち明け、それを見せてくれたのである。

写真を見た瞬間、彼の心臓の鼓動は高まった。それは、"らせん構造"からしか生じない写真だったからである。

では、どんならせん構造なのか。それさえ解けば、自分たちが生命の秘密を解いたことになるのだ!数日間、ワトソンとクリックは、模型の部品をいじり回し、データと合う形を探し続けた。

ある朝、ワトソンの脳裏に、答えが稲妻のごとくひらめいた。早速、模型を組み立てる。2本の鎖がらせん状に絡まり合った、その形は非常に美しかった。クリックも、模型が正しいことを認めた。2人はとうとう、生命の秘密を見つけたのだ。急いで論文を書き上げ、タイプを頼んだ。

「生物学史上で最も画期的な発見の一翼を担うことになる」

と言葉を添えて。

1953年、発表した論文には、ワトソン、クリックの順で名前を掲載した。順番は、コインを投げて決めたという。

9年後、2人がノーベル生理・医学賞を受賞した時、ワトソンは34歳だった。

科学界の内幕暴露

6年後、彼は発見までのいきさつを暴露した『二重らせん』を出版する。科学者たちが周囲を欺いて情報を盗み見たり、ライバルに成果を隠したりした姑息な手段を、生々しく記したこの本は、賛否両論を巻き起こす。

「科学のイメージを壊した」
「科学者だって人間だ。その神話を崩した画期的な書だ」

よくも悪くも、世界的なベストセラーとなったのだった。

(自分たちだけが)ふう変わりな例外とは信じられない

とワトソンが記したとおり、科学界にも、名誉欲が渦巻いているのである。

 

あまりに若くして、歴史的な仕事をしたワトソンは、その後どう過ごしたのか。

「あれほどの論文は、めったに書けるはずもなく、つらかった」

と漏らし、後続の研究者を育てることに主力を注いだといわれている。

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 かずさDNA研究所―DNAって何?―

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