明治25年、龍之介は牧場を営む新原敏三の長男として、東京に生を受けた。1歳に満たぬうちに、母・フクが精神に障害を来し、親戚の芥川家に引き取られる。
彼は小学校へ上がる前から、1人で草双紙(江戸時代の絵入り短編小説の一様式)を読む賢い子供だった。10歳で実母が亡くなったあと、実父・敏三は、優秀な龍之介を取り戻そうと、露骨に口説き始める。新原家と芥川家はいがみ合い、12歳の龍之介は、裁判所で尋問まで受けたという。正式に芥川家の養子となったが、この一件は少年の心に、打算的な人間の姿を印象づけた。
"気に入られなければ、捨てられるかもしれない"
養子の身の不安から、龍之介は一層、熱心に勉強するようになる。21歳で東京帝国大学(文科)へ入学。小説を書き始めた。
同じころ、青山女学院の吉田弥生と恋に落ち、結婚を考えたが、芥川家の猛反対で、断念するに至る。弥生は、新原家と親しい家の娘だったのだ。ここでも、人間のエゴを見せつけられ、友人にあてた手紙に心情を吐露している。
周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい
東京大学 赤門(Wikipedia)
鮮やかな文壇デビュー
暗く沈む自分と懸け離れた小説を書こうと、『今昔物語集』を題材に『羅生門』を執筆。続いて発表した『鼻』が、文豪・夏目漱石から絶賛され、芥川龍之介は鮮やかな文壇デビューを飾った。
その後の作品も好評を得て、作家の地位を確立した彼は、養家の勧めに従い、25歳で、8つ年下の塚本文と結婚する。初めは無垢な妻をいとおしんだが、翌年には、歌人・秀しげ子に心を移す。しかし、しげ子には別の恋人があり、しかも相手は自分の友人だった。彼は身勝手な自己と周囲を、のろわずにおれなかっただろう。
内面の悩みに加え、養父母と伯母の面倒も見ていた彼には、生活上の不安もあった。
言いようのない疲労と倦怠とが、重たくおれの心の上にのしかかっているのを感じていた。寸刻も休みない売文生活!(東洋の秋)
契約社員だった大阪毎日新聞社に懇願し、正社員に登用されたが、社命で訪れた中国での生活は、彼の肉体をむしばんだ。病は悪化する一方で、帰国後も筆が進まない。敬愛する作家・志賀直哉に相談するが、
「1年か2年、冬眠したら」
という言葉に、
「そういう結構なご身分ではないから」
と、ぽつり答えている。
目的なき人生
自伝的作品『或阿呆の一生』には、長男の誕生を、こう嘆いている。
なんのためにこいつも生まれて来たのだろう?この娑婆苦の充ち満ちた世界へ
醜悪な人間が、苦しくとも生きねばならぬ理由は何か。
人生は地獄よりも地獄的である(侏儒の言葉)
生きる意味が分からず、無意味な一生だと痛感した芥川は、深い苦悩を味わった。
昭和2年、義兄が自殺し、龍之介は、あるじを失った姉一家を加えて20人の生活を支えねばならなくなった。遅筆で知られる龍之介は、追い立てられるように小説を著していく。心中はしかし、死ぬことばかり考え続けていた。
同年7月、龍之介は、ある売春婦と彼女の賃金の話をし、しみじみ"生きるために生きている"人間の哀れさを感じたという。
その翌日未明、ついに、致死量の睡眠薬を仰ぐ。遺稿には、自死の理由が、
何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である(或旧友へ送る手記)
と記されていた。
「将来に対する唯ぼんやりした不安」とは、生きて、行き着く先が、分からぬ不安なのだろうか。
"どこに向かって生きればいいのか"
芥川は、目的なき生に耐え切れなくなった末に、悲しい終止符を打ったのかも知れない。
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芥川龍之介・思索の果ての自殺
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