人生の意義に答えるのが宗教だ。
アルベルト・アインシュタイン
アルベルト・アインシュタインは1879年、ドイツのユダヤ人家庭に生まれた。
スイスのチューリッヒ工科大学卒業後、 26歳で、5本の科学論文を発表する。
うち2つは、特殊相対性理論に関する内容であり、有名な方程式 E=mc2 が含まれていた。ほかに、量子論の基礎となる論文もあった。
適当な職が見つからなかった彼は当時、スイスの市民権を得て、特許局に勤務していた。
日中は役人として、出願された発明品の予備審査をしながら、就業後の時間で、現代物理学の2大論文の土台を構築したのである。
従来の物理学の常識に反する相対性理論は、すぐには受け入れられなかった。彼はほかの論文で注目を浴び、各地の大学から、教授として招かれるようになる。
11年後には、特殊相対性理論を拡張した一般相対性理論を発表。空間はゆがんでいるとするこの説は、大反響を呼び、強く証明が要求された。
1919年の皆既日食で、理論どおり、光すら重力の影響で曲がることが観測されて初めて、相対性理論は広く世の中に認められたのである。
「科学の革命。新しい時間空間論。ニュートンの引力論は覆された!」
各国のマスメディアは、このニュースを大々的に書きたてた。アインシュタインは一躍、世界的有名人となる。2年後、ノーベル物理学賞が贈られ、名実ともに、科学者の頂点に立った。
チューリヒ工科大学 (Wikipedia)
宗教に深い関心
物理学を研究する一方で、宗教論も表した。
彼は、宗教に3段階あると述べている。
第1は、原始的な「怖れの宗教」。
たたりを与える神を想像し、いけにえを供えて、機嫌をとるたぐいだ。
文化的に多いのが、第2の段階。人格神を説く「倫理的宗教」である。
しかし科学の発達により、病気や遺伝など、種々の因果関係が明らかになるにつれ、神の意志が働く余地は全くないとの確信は深まる一方だ、と彼は言っている。
さらに、天動説や進化論など科学の領域に、独断的な神話を持ち込む人格神の概念が、宗教と科学の抗争を生んできた、と結論付けた。
第3段階の宗教とは、神の概念のない「宇宙的宗教」だと言い、因果律に立脚し、科学とはなんら矛盾しない仏教に多大な関心を寄せている。
かくて、
宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である。
という名言を残した。
原爆投下と平和運動
アインシュタインはまた、生来の平和主義者であり、武装解除を理想としていた。
52歳のとき、ヒットラーが政権に就き、ユダヤ人へ恐るべき弾圧が加えられるに至り、考えは一変する。米国のプリンストン高等研究所の教授に迎えられた後、彼はナチズムを倒すため、アメリカ軍部に協力するようになる。
1939年、彼を驚愕させる報告がもたらされた。
ドイツの科学者がウランの核分裂を発見したと言うのだ。
それは、かつて E=mc2 が示唆した「小さな質量が莫大なエネルギーを生む」理論が現実となり、原爆開発の可能性が格段に高まったことを意味していた。
「ナチスより先に完成しなければ、大変なことになる!」
学者仲間の求めに応じ、アインシュタインは、ルーズベルト大統領あてに、原爆開発を暗に促す手紙を書く。
かくてアメリカはプロジェクトチームを結成し、人類史上初めて、原爆を製造したのである。だが、それはすでに降伏していたナチス・ドイツにではなく、日本に投下された。
「Oh, weh!(ああ、何ということか)」
ニュースを聞いたアインシュタインは、うめいたという。
原爆開発を主導したオッペンハイマー(右)
とアインシュタイン (Wikipedia)
自分は郵便ポストの役を果たしただけだ。直接、原爆製造に手をかしたわけではない・・・・。 そう考えて自らを慰めようとしても無駄だった。
第2次世界大戦終結後、ナチの原爆は完成には程遠かったと判明した。「それを知っていたら、指一本動かさなかっただろう」とも嘆いている。
彼は再び平和主義者に戻り、核兵器廃絶を叫び続ける。
10人の科学者とともに、核兵器反対、紛争の平和解決を訴える「ラッセル=アインシュタイン声明」に署名した1週間後、心臓発作で76歳の生涯を閉じたのであった。
長足の進歩を遂げた科学は、もっとも強力な手段であるが、 かつてない大量殺戮にも使われ、人類自体を滅ぼそうとするまでに至った。
科学を何に使うか、その目的を教えるのが宗教の役目だとも、生前、アインシュタインは訴えた。
『私の世界観』という本には、
人生の意義に答えるのが宗教だ
と書いている。
道具である科学の危険性を熟知していたからこそ、もっとも大切な人生の目的を明示する「真の宗教」を、彼は切実に希求したに違いない。
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ラッセル・アインシュタイン宣言
現代科学にかけているもの/アインシュタイン
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