「清貧なんてこりごりだ」
『文藝春秋』を創刊し、「芥川賞・直木賞」を創設したことで、菊池寛は知られる。
文壇は皆、清貧にあえいでいた昭和初期に、儲かる文士≠ニして、一世を風靡。そのモットーは、「生活第一、芸術第二」であった。
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明治21年、香川県高松市に生まれる。
維新で家禄を失った元士族の父は、小学校の庶務係をしていたが、一家は貧しかった。教科書が買えず、菊池少年は、友達に見せてもらって筆写したと伝えられる。
そんな暮らしではあったが、菊池は、図書館の蔵書2万冊を読み尽くす秀才で、学校の成績も上位だった。
文学を志し、20歳で東京高等師範学校へ。だが、無断欠席が理由で除籍される。
苦労して入学した第一高等学校(現・東京大学)も、友人の窃盗の罪をかぶり退学、人生に虚無感を抱いたという。
同情した同級生の父の経済的援助を受け、京都帝国大学に入学、一高で知り合った芥川龍之介に誘われ、同人雑誌『新思潮』に戯曲を幾つか発表する。しかし、ほとんど注目されなかった。
28歳で卒業し、東京で新聞記者と創作の二足のわらじをはくが、知人宅に居候の身で、少ない給料の半分を実家に仕送りし、主人のお古の洋服を着ていた。
菊池は考えた。高尚な理想や思想もいいが、ちゃんと生活できなかったら、意味がない。「生活第一、芸術第二」。
貧苦を脱する第一歩は、金持ちの娘との結婚だった。故郷で見合い相手を募集すると、秀才の誉れ高い菊池に5、6人が応募した。菊池は、持参金の額だけで相手を決めた。
翌年、長女・瑠美子が生まれると、一家の主としての責任を感じ、猛烈な勢いで作品を発表する。それらが評価され、やがて新進作家としての地位を確立し、原稿料はうなぎ登り。きっと、お金の力を感じたに違いない。
同じころ、夏目漱石門下の久米正雄が、漱石令嬢との大失恋で苦しんでいた。芥川龍之介ら仲間が、しんみりと同情する中、菊池だけが、こう言ってのけたという。
「久米の失恋なんか、そんなにたいしたものじゃないよ。金さえ入りゃかんたんに片がついてしまうよ。(略)この際、久米にとって一ばん必要なのは原稿料だ」
(「その頃の菊池寛」)
成金≠ニ揶揄される
大正8年(31歳)、創作一本の身となり、翌年始めた新聞小説『真珠夫人』が爆発的な反響を呼んだ。芸術的価値よりも、「売れるもの」を、という読みが当たったのである。主に女性読者の圧倒的支持を受け、掲載紙は部数を3倍に伸ばし、連載半ばにして異例の舞台化が決定する。劇場はどこも大入りの熱狂ぶりで、菊池は一躍、時代の寵児となる。新聞社は、給与7カ月分のボーナスを支給した。
しかし、「成金作家」と陰口もたたく者も増え始め、菊池は窮屈な思いを抱いた。自由にものが言える場として大正12年、雑誌『文藝春秋』をポケットマネーで創刊する。
執筆陣は、芥川や川端康成などの錚々たる顔ぶれながら、定価は、うどん1杯分の10銭。文芸誌としては破格の安さで売り上げを伸ばし、四年目には、驚異的な11万部発行を記録する。菊池の個人所得もむろん、作家のトップクラスだった。
失意のうちに幕引き
文壇の大御所≠フ地位を不動にしたが、果たして菊池の人生観に変化はあったのか。絶頂期の大正12年、関東大震災で感じたことを、こう書いている。
「人生に於て何が一番必要であるかと云うことが今更ながら分かった。生死の境に於ては、ただ寝食の外必要なものはない」 (災後雑感)
「生活の安定」「金がすべて」という青年期からの考え方は終生、変わらなかった。
昭和16年、太平洋戦争が始まると、『文藝春秋』で戦意高揚に努めたのも、軍部に逆らわず、生活を守るためという単純な発想だったのだろう。が、それが災いし、敗戦後、戦犯としてGHQから公職追放令が発せられた。
翌23年、失意のうちに狭心症で急逝。六十歳の若さだった。
「人生恋すれば憂患多しと
恋せざるも亦憂患多きを」
生前、色紙に残した言葉である。心の奥底では、金で解決できない苦しみに、終生、おびえていたのかもしれない。
あなたの心に真の光を。
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