嫌いな人の真実よりも、好きな人のうそがいい
ハンナ・アーレントの場合
ハンナ・アーレントといえば、ナチズムを論じた『全体主義の起源』で、世界的に有名な女性思想家だ。妻子あるハイデガーと、恋人関係にあったことでも知られている。
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1907年、ユダヤ人の両親の元、ドイツに生まれる。
7歳で、最愛の父と祖父を相次いで亡くし、唯一の家族となった母が、一人で湯治に出かけるたびに、孤独に怯えたという。
病気で学校を長期欠席したり、母の再婚による二人の異父姉妹との同居で、孤独感と無力感をさらに深めていく。
その反面、ユダヤ人として、胸を張って生きてほしい≠ニいう母のしつけのためか、目つきは鋭く、高校1年の時には、授業ボイコットで退学処分となってしまった。
「虚勢を張ることが私のエネルギーの実に多くを食いつぶしてしまう」
と、後に胸中を明かしている。
学業はずば抜けて優秀で、同級生より一年早く大学入学資格を取得した。そして、生きにくい人生の解決を哲学に求めたマールブルグ大学で、マルティン・ハイデガーと運命的な出会いをする。
当時、35歳の若さでドイツ全土に名を馳せていたハイデガー助教授は、妻子がありながら、東洋的な顔立ちで聡明なアーレントに一目惚れした。畏敬する師の甘い言葉にすっかり魅せられ、アーレントは、彼のスケジュールに合わせて、下宿の屋根裏部屋へ招くようになる。
2人は学問的にも互いに刺激を与え、ハイデガーは間もなく、主著『存在と時間』を完成する。アーレントは、思索の方法を吸収していった。
交錯する愛憎
しかし保守的な町で、人目を忍ぶ逢瀬が、長続きするはずがない。2年後、ハイデガーの意向をくみ、彼女は別の大学に移る。その後しばらく続いた関係も、ハイデガーから一方的に打ち切られた。
「神の思し召しがあれば、私は死後もあなたを一層愛するでしょう」
と言い、失意のまま23歳で、ユダヤ人哲学者との結婚を選ぶ。
第2次大戦前夜、ドイツでは反動的な空気が広がっていた。ナチ党への傾斜を強めていたハイデガーは1933年、ついに入党し、ナチスの後ろ盾でフライブルク大学の学長に。その就任演説で、ヒトラーをたたえ、忠誠を公言したのである。
ショックを受けたアーレント(27歳)は、ユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れる中、二度と戻らぬ決心でドイツを離れ、アメリカへ亡命。ジャーナリストとして、ハイデガーを含むドイツ知識人たちが、ナチを支持した盲目と臆病ぶりを非難し続けた。
大戦後、公務で再びドイツの土を踏む。この時、ナチ協力の罪で公職を追われ、非難の渦中にあったハイデガーに、17年ぶりに再会するや、
「生涯で初めてお互いに(真剣に)話し合った」
と和解し、彼のウソで固めた弁明を、いとも簡単に信じたのである。
「ハイデガーのナチズムは、いろいろなことが重なり合った成り行き」
「(あの悪名高い演説も)ある点では不愉快なほど民族主義的ではあるが、決してナチズムではない」
と弁護に努める一方、彼の著作の英訳事業に協力し、その翻訳からナチズムの痕跡を払拭することにも腐心した。
「根は人が善くて、私の心をしきりに揺り動かす人なつこさ(こうとしか私には表現できないのですが)を確信」したと述べ、彼の前では著名人の顔を捨てて、女学生のように振る舞ったといわれる。
「嫌いな人の真実よりも、好きな人のうそがいい」
というように、物事の本質を見抜く力を持つ≠ニ言われたアーレントも、好いた人のやったことは、悪には思えなかったのだろう。
自分に都合のよい時は善い人で、都合が悪くなれば悪い人という。どんな他人の批評にも、いつもこんな危険が冒されていることが分かる。
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ハイデガーとの交友関係は、晩年まで続き、68歳の最後の訪問では、かつて三角関係で火花を散らした彼の妻ともうち解けたという。
2人の手紙(抜粋)
ハイデガーから(出会ってから3通目)
愛するハンナ!
デモーニッシュ(悪魔的)なものが僕を引っつかんでしまった。
こんなことが僕に起きるなんて、いまだかつて一度もなかった。
帰りの風雨の中、きみは一層美しく、一層偉大だった。どんなにか、きみと夜通しさすらい歩きたかったことか。
どうか、ハンナ、僕に数語なりとも贈ってください。
きみのM
アーレントから(ハイデガーから音信が途絶えたころ)
愛するマルティン
私を忘れないでください、そして私たちの愛が私の人生の祝福となっていることを忘れないでください。
よくあなたのことを耳にしますが、それがあなただと思えないのです。知りたくてなりません――ほとんど身をさいなむほどに――あなたはお元気なのか、今は何のお仕事をなさっているのか、フライブルクの居心地はどんなふうか。
あなたの額と目に接吻を
あなたのハンナ
※『アーレント=ハイデガー往復書簡1925ー1975』(みすず書房)
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The Hannah Arendt Papers at the Library of Congress
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