アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ
Anton Pavlovich Chekhov,1860-1904

ロシアの小説家・劇作家。さりげない出来事のうちに、日常性のなかで俗物化していく人間への批判と人生の意味への問いかけをこめ、風刺とユーモアに富む文体で描いた。小説「退屈な話」「曠野(こうや)」「六号室」、戯曲「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」など。 (大辞泉)

人生は、いまいましい罠

アントン・チェーホフ

「絶望の詩人」と言われ、末期の帝政ロシアを生きた作家・チェーホフは、食料雑貨を扱う商家に生まれた。

明るい性格の少年だったが、一家は乱暴な父親に支配され、

私の少年時代には、少年時代がなかった

と語っている。

16歳の時、父が破産して夜逃げし、一家は離散。チェーホフは、貧民窟で飢える母や妹たちを養うために、家庭教師をして駆け回った。こうして中学を卒業し、大学入学資格と奨学金を得て、19歳でモスクワ大学医学部に入学する。

家族の生活費を稼ぐため、今度は、当時流行していた短編ユーモア小説を多く書くようになった。これが評判になり、一躍、文学界の寵児となる。

医師から転じ、本格的に文学の道を歩み始めたチェーホフが気づいたのは、ひとたび思想を語ろうとすると、人生について何1つ分かっていない自分であった。彼は小説『ともしび』の末尾で、

この世のことは何一つわかりっこないさ!

と繰り返し、文学界から無思想・無主義だと非難される。

囚人島での苦渋体験

大家族を抱えた生活苦、生きがいのない無為な日々。チェーホフはひどい憂鬱症に陥っていった。30歳の時、流刑の実態調査に訪れた囚人島サハリンで見た、貧困、病気、そして退廃が、「腐ったバターのような、言い知れぬ苦渋」をチェーホフに味わわせ、空虚な人生観をますますつのらせていく。

サハリンから帰ったあと、医師と精神病患者の姿を描いた名作『六号病室』を執筆する。

人生は、いまいましい罠です。(中略)人は自分の存在の意義や目的を知りたいと思う、が、誰も答えてくれないか、愚にもつかないことを聞かされるだけ。叩けども―――開かれずです。そのうちに死がやって来る

同時期の小説『恐怖』には、こうも書いている。

僕は君、人生がわからない、それで恐れているのです。ひょっとすると、僕は理性を失った病人かも知れない。正常で健康な人は、見たり聞いたりする一切のことを理解しているつもりですが、僕はこの《つもり》というやつを見事なくしてしまったために、来る日も来る日も恐怖に中毒しているのです。(中略)もし人生の目的なり意義なりが貧窮と出口のない絶望的な無知にあるとするなら、誰のために、何のためにこうした責め苦が必要なのか僕にはわからない

絶望の最期を迎える

それでも生きる意義を求めて、チェーホフは、飢餓民救済やコレラ防疫に従事し、貧しい工場労働者を相手に診療所を開いて、各地に小学校も建てた。このころの友人への手紙には、

われわれには近い目的も遠い目的もありません。肚の中は球でも転がせそうな空虚です。政治を信じない、革命を信じない、神をもたない……

その後、37歳で持病の結核から激しい喀血を起こしたが、退院後、再びペンを執り、戯曲『ワーニャ伯父さん』を完成させる。不安な未来へ向かって、必死に生きようとする人々の姿を描いたこの劇は、高い評価を受けた。

次作『三人姉妹』の上演も成功。高まる名声の中、41歳で女優オルガ・レオナルドヴナ・クニッパーと結婚するが、それをあざ笑うかのように、結核が容赦なく体をむしばんでいく。

44歳、最高傑作といわれる『桜の園』初演。だが、歓声の中、舞台に立ったチェーホフは、死人のように青ざめ、やせ衰えていたという。

それから半年後、「私は死ぬ!」と病床で叫んだ後、2度と起き上がることはなかった。耐えがたい空虚に耐え、生きる意味を最期まで求めた続けた人生であった。

まっくらな夜、森の中を歩いてゆく人が、遙か彼方に一点のともしびの瞬くのを見たら、どうでしょう。もう疲れも、暗さも、顔をひっかく小枝のとげも、すっかり忘れてしまうでしょう。……私は働いている――これは御存じのとおりです。この郡内で、私ほど働く男は一人だっていないでしょう。運命の鞭が、小止みもなしに私の身にふりかかって、時にはもう、ほとほと我慢のならぬほど、つらい時もあります。だのに私には、遙か彼方で瞬いてくれる燈火がないのです(ワーニャ伯父さん)


チェーホフが最後を迎えたバーデンヴァイラーのホテル(Wikipedia)

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 ロシア文学:チェーホフの伝記

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