江藤 淳
Eto Jun,1932-1999

戦後日本を代表する文芸評論家。東京生まれ。夏目漱石の研究で知られるほか、保守派の知識人として戦後民主主義を批判。1999年鎌倉市の自宅で自殺。代表作に「漱石とその時代」「成熟と喪失」「閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本」など。

ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕らえ、意味のない死に向かって刻一刻と私を追い込んでゆくのである

江藤 淳

平成11年、戦後を代表する文芸評論家が、66年の生涯に自ら終止符を打った。鎌倉の自宅で倒れている江藤淳氏が発見されたのは、慶子夫人を亡くして1年に満たぬ、7月の夜だった。

江藤氏と妻の慶子夫人は、慶応大学の同級生である。恋に落ち、卒業と同時に結婚した。在学中の『夏目漱石論』で、気鋭の評論家として注目されていた江藤氏は、本格的な執筆活動を始める。

歯にきぬ着せぬ辛辣な批評は、政治や現代社会にも及び、石原慎太郎や大江健三郎らとともに、新世代の旗手と称されるようになる。

執筆に現れた完全主義者ぶりを、批評家・福田和也氏は、こう記す。

(江藤氏は)完璧な原稿を編集者に渡すことが誇りだった。原稿には直した跡もなく、つまり江藤氏は、筆を降ろす時には、脳裏においてすでに完成した文章の姿ができあがっていたのである。 (中略)講演にしろ、対談にしろ、氏は話し言葉においても、語ったそのまま活字にして一切直す必要がない、脈絡と修辞で語ることの出来る現在唯一人の文学者とされている(江藤淳という人)


慶應義塾大学

一卵性夫妻

卓越した集中力と妥協なき強さを支えたのが、慶子夫人だった。

子供の無い江藤氏にとって、妻は、ただ1人の家族であり、原稿の締め切りを把握するなど、秘書役もこなす、パートナーであった。4歳で母親を失った江藤氏の、母でさえあっただろう。

夫が執筆中、来客や電話に煩わされぬよう、慶子さんは一切外出せず、待機していたという。

僕は電球も取り替えられないんだ

冗談半分に江藤氏は、語った。

書斎の机に妻の写真を置き、本ができ上がると感謝の言葉を添え、真っ先に贈っている。妻の第一印象を楽しみに、大事に受け止めた。

夕方には、よく2人で散歩に出掛け、「一卵性夫妻」と呼ばれるほど、よい仲だったのである。

「家内を一人にしない」

妻が末期ガンと知った時、江藤氏は、魂を抜かれたように茫然と空を見つめた。

体の弱い江藤氏に比べ、慶子さんは体力に自信があり、水泳で鍛えてもいた。結婚生活41年間、大病を患ったことがない。先に逝くのは自分、と江藤氏は信じていたのだ。

脳と肺に18ヵ所の病変があり、手術は手遅れ。長くて半年との宣告を受ける。

尽くしてくれた時間を返したい

江藤氏は、献身的な看病を始める。 無宗教のはずの江藤氏が、とげ抜き地蔵に祈った。大学での講義を休み、麻痺していない妻の左手を握り締める。病院近くのホテルに泊まり込み、少しでも長く、そばにいようとした。

モルヒネで、昏睡状態になってもなお、水滴がたれる顔をふき、「大丈夫だよ」と話しかけた。

ガン宣告から8ヵ月後、慶子さんは静かに息を引き取る。

「家内の死と自分の危機とを描き切りたい」と筆を執った『妻と私』は、江藤氏の事実上の遺書といわれる。

家内の生命が尽きていない限りは、生命の尽きるそのときまで一緒にいる、
決して家内を1人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が逝ってしまったいまとなっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向って刻一刻と私を追い込んで行くのである(妻と私)

やるせない哀感が描かれた手記は、短期間に反響を呼んだ。 だが、悲しみはいやされることなく、激しい雷雨の夜、江藤氏は浴室で手首を切る。

心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成11年7月21日 江藤淳

夜勤のお手伝いさんの通報で、消防署員が駆けつけたが、意識はすでになかった。

人間の理性のもろさ

慶子さんが健在だったころ、江藤氏は書いている。

最後の最後まで仕事が続けられるように心がけ、そしてひと握りの理解者に囲まれて生を全うしたいものだ(批評と私)

ほかにも江藤氏は、生き抜く意志を各所に表明していた。

生きることに意味があるから生きているのではない。意地で人が生きられることを自分に納得させるために生きているのだ(批評と私)

私はある瞬間から死ぬことが汚いことだと突然感じるようになったのである。さりとて人生に意味があるとは依然として思えなかったので、私には逃げ場がなくなり、自分を一個の虚体と化すこと、つまり書くことよりほかなくなった(文学と私・戦後と私)

自殺当時はしかし、「幼年時代」の連載を開始したばかり。執筆活動も、生きるよりどころにはならなかったのだ。

生の意志を表明した理性も、あっけなく吹き飛んだ。

作家・高井有一氏は、死の2ヵ月前、江藤氏の、こんな言葉を聞いている。

夜はまだいい。周りが闇に閉ざされているから。昼は光が入って、家の隅々、庭まで見えてしまう。そこに、それまで居た人がいない。この空白感が耐え切れない。

【このページのトップ】

 江藤淳の自殺と識者の自己矛盾
 「とにかく生きよ」で自殺は止められるか

親鸞会のゆず